会社員であって自分にとって好きな仕事ができる。
これってすごくいいですよね。
先月書いたブログは「いかに自分のためになる仕事をするか」、その方法を書きました。
今回は一歩進めて「自分の好きなことを仕事にするには」についてお話しします。
いつもながら赤裸々な自分の過去を振り返ります。
昭和時代からの話だから、ビデオやスマホがまだ登場していないので、世相に注意して読んでくださいね。(^^)
では始まり、始まり~。
1.始まりは8mm映画から
富士宮市の街中で過ごした子供時代に懐かしい場所があります。
それは家の近くにある「第一劇場」という映画館でした。
小6の時にテレビで「大脱走」を見て外国映画にハマり、家から歩いて300歩くらいの劇場によく映画を見に行ってました。
その劇場は「第一劇場」といい、燃えよドラゴン、ダーティハリー、未知との遭遇などアクション、SF作品をメインに見ました。
上の写真がそれらのパンフレットです。
高校時代には映画研究同好会に入り、親の8ミリカメラを借りて映画をつくりはじめました。
映画は作るのもおもしろく、見た人が感動するのを見て、いつかこの世界に入りたいと思うようになりました。
やがて月日は経ち、大学3年になりそろそろ就職の準備をしなければ、という時期になりました。
どうやって映画会社に入れるようになるのか、考えてみました。
映画作品を作ってそれをPRしたらどうか?
とりあえず、そのような結論に至りました。
しかし8ミリ映画はフィルム代とカメラのメンテナンスにも金がかかります。
資本金も何もない私は、まず親の仕送りをすべてフィルムに回した結果、毎日インスタントラーメンの日々になりました。
まずは脚本です。
「午後の天使」という題名で警備士の老人とタレント追っかけ少女を出来事にしたシナリオを1本作り友達に回し読みしてもらいました。
しかしあまりウケません。
そこで原作を探すことにしました。
ちょうどルームメイトに作家志向の人がいて、書きおろしを読ませてもらいました。
ホラー映画とコメディが一緒になったようなストーリーでした。
「これなら低予算でできそうだ」と思い、それを脚色しシナリオの形にしてみました。
次に出演者を募りました。
「なんかおもしそう」という理由で比較的時間に余裕のある人が集まりました。
すぐに出演者は決まったものの、なかなか前に進みません。
みんなほとんど遊びで参加してくるので、時間が合わなかったり途中でアキて役を降りたりと、調整するのに苦労しました。
出来上がった20分の短編映画はかなり厳しいものになりました。
「これはとうてい見せられないかも」ということで、就職用にPRするのは諦めて次を考えることにしました。
一番ほっとしたことは、インスタントラーメン生活から逃れられることでした。
2.まずは映画やテレビの裏方をバイトしてみた
これはもう自分ひとりで作るしかないかも、と思った私はドキュメンタリー映画をつくることにしました。
これならば出演者を使わなくて済みます。
ただ、ドキュメンタリーの制作知識はないので、とりあえず映画会社とテレビ局でバイトして、業界を知ろうというということにしました。
東宝舞台という大道具制作の会社にバイトで入り、TBSの番組の大道具を作っていました。
こういう力仕事はまったく私に合っていなかったんですが、仕方がありません。
担当番組は、東芝日曜劇場、クイズダービー、2年B組仙八先生などでした。
超深夜の仕事で夜8時出社の朝6時帰りです。
昼間は大学の授業があるので寝不足の日々が続きました。
もうひとつは、映画やCMのエキストラ。
刑事映画やテレビCMの群衆の一部をやりました。
いずれにしろ分かったことは、映画やドラマは時間をかけて大人数でつくるということでした。
エキストラにしてもロケの準備が遅れて5時間待たされるのは普通。
子役が深夜でもじっと待っているのに、こちらはしびれを切らしているのが恥ずかしくなりました。
床に落ちてゴミになっているシナリオを持ち帰って勉強したり、大道具・小道具などの使い方や美術も参考になりました。
驚いたのは、現場で見ると汚い大道具もブラウン管で見るとすごくキレイに見えるということでした。
シナリオで驚いたのは、ベストテンみたいな歌の番組でも司会のアドリブまで事細かに書かれていたということでした。
もちろんそのまま読んでいるとは思いませんでしたが、どの番組でもセリフがかなり作りこまれていました。
3.竹の子族のドキュメンタリー映画を作ってみた
そんなことで、バイトの日々は過ぎていき、何を題材にドキュメンタリーをつくるかシナリオ作成段階まで行きました。
その時点で大学4年生になっていたので、あと就職解禁まで半年しかありません。
(当時は大学4年生の10月が解禁日でした)
当時、原宿では竹の子族が流行っていたのでこれを取材することにしました。
竹の子族とは、ホコ天の竹下通りでグループで踊りを踊る人たちのことです。
ロックンロールなティーンの集まりでした。
まず親戚の高校生のつてを頼って、竹の子族に潜入レポすることにしました。
ソニーのカセットテープレコーダーと8mmカメラを抱えて現地に行きます。
踊りの輪に入りながら撮影していきます。
それが終わったらインタビューという日々を繰り返していきました。
台風が接近していたある日のこと。
さすがに踊っていた人いないだろうな、と思い現地に行ったところ、ズブ濡れになりながら踊っているツワモノがいました。
濡れているのでややシースルーになり、撮影をためらいましたが背中ならいい、ということになり無事撮影を終えました。
「こういう行動って、外国人はどう思っているのだろう?」と思い、当時通っていた英会話学校の外国人講師にインタビューしたりもしました。
「日本人は個性を発揮しようと思ってやっているだろうが、みんなやりだしてからはそれが没個性になってしまっている」という手厳しい評価でした。
取材したフィルムを切り張りして、それにナレーション・BGを加えて完成です。
友達何人かに見せましたが、好評でした。
3.就職に足りないのはコネだった
その後、就職シーズになり、映画会社やテレビ局を受けます。
結果はどうだったか?
ゼロでした。。。
当時は就職冬の時代で映画会社自体、募集をしていませんでした。
テレビ局に関してはバイトをしたくらいでは何のアドバンテージにもならないこともわかりました。
そして、ドキュメンタリー映画はどうなったか?
「映画を見るにはかんべんしてください」という面接官が多く、20分物のフィルムを見る余裕はない、という理由でことごとく却下されました。
一日何百人もの面接がある人事部にはそんな余裕はないということがわかったのです。
「テレビCMって映画を15秒にしたものだろうな」
こう気持ちを切り替え、広告代理店志望に気持ちを切り替えました。
しかし広告代理店就職も甘くはありません。
だんだん分かってきたのは、「コネがないと入れない」ということでした。
事実、受かった広告代理店2社はコネが功を奏しました。
あまりに業界の慣習がコネだらけだったので嫌気がさし、当時投稿していたしていた朝日ジャーナルにそれをぶちまけました。
私の投稿は内容がおもしろかったらしく、毎回朝日新聞から謝礼をいただきました。
中には反論する読者もいましたが、今にして思えばブログを書いているようなものでした。
昭和時代は新聞や雑誌の投稿欄でしか、他人とコミュニケーションは取れなかったんです。
4.広告代理店で好きなことを仕事にする
そんなことで、広告代理店のラテ課(ラジオ・テレビのこと)に入社した私は、300本はCMを作ったと思います。
当時はカードCMといって動かないCMもたくさんありました。
映画を撮っていた経験が役に立ったのは、言うまでもありません。
上司の仕事で自治体のドキュメンタリー映画をつくることになり、シナリオも書きました。
今度は16ミリ映画でした。
親戚のママさんバレーの様子をネタに練ったシナリオはプレゼンを通過し、映画は完成しました
CM制作の仕事で一番役に立ったのが、CMコンテだったと思います。
大学の時、映画を撮る前にアングルやシチュエーションを決めるため、マンガみたいなものを書いていました。
それをコンテと言います。
ヘタウマですがCMコンテを書く営業はいなかったので、かなり重宝され、他営業の手伝いもしました。
人間国宝とコラボしたCMはACC賞を取ることができ、広告作品のいくつかは業界誌や本に載るようになりました。
私はディレクターではなく営業だったのですが、企画・プロデュースという役割で掲載されました。
優秀なディレクターが周りにいたのも幸いしました。非常に感謝しています。
広告会社変わってからは、番組製作もするようになりました。
バラエティ番組やドキュメンタリーが主でしたが、映画製作の経験が大いに役に立ちました。
大学時代の映画製作よりラクだったのは、会社の信用でスポンサーを募ることができたらからです。
自腹を切ってインスタントラーメン生活をする必要はありません。
こんな感じでいろいろ好きなことをしてきましたが、仕事をする上で厳しい条件がありました。
5.好きなことをするにはリスクを取らないといけない
サラリーマンなので、死ぬほどのリスクはありませんが、番組制作は多少のリスクが伴います。
それは、言い出しっぺが責任を取らないといけないことです。
最初に作った1時間のドキュメンタリー番組は、ある程度スポンサーが想定されたのですんなり行きました。
女性の活躍を題材にした企業ドキュメンタリー番組でした。
2回目と3回目はラジオ番組でしかも、3カ月から1年のロング番組。
4月の改編に合わせて企画するので、2月にはスポンサーが決まっていなければいけません。
以前と違い、まったく新しい試みの番組でしたので、まったくスポンサーのアテはありませんでした。
次のような番組です。
●アースデザイン・マインドミュージック
野鳥の声など自然の音とフュージョンをリミックスする30分の環境番組
●ラジオインターネットマニア
インターネットの面白ネタを紹介・コメントしていく番組
この二つの番組企画はすんなりラジオ局に通ったものの、スポンサー探しは難航しました。
番組放映時間は押さえているのでやらないわけにはいきません。
ギブアップはできないんです。
しかも私は「またあいつが何かやっている」という風変わりなポジションを社内で確立していたので、誰も相手にしてくれません。
1人でやるしかないのです。
思ったのは、「映画のプロデューサーってこうなんだろうな」ということでした。
優れた映画企画を作っても資金提供者が集まらないと映画はできないのと同じなんです。
とにかく日々、いろいろな企業に飛び込みをしては、断られの連続でした。
しかし、仕事とはなんとかなるもの。
「これはおもしろいから協力します」と言ってくれるスポンサーが現れるものなんです。
失敗したら会社を辞めようと思っていた私は運がいいことに、そのあと何回か番組・イベント企画を作っては実施することができました。
そしてこれは会社をつくる時に資本金を募って株主を探すことと似ていました。
株主もおもしろそうな事業を考えている若者に出資してくれるもんなんです。
6.会社のノルマは最低条件
最後にもうひとつ、リスクではないのですが、好きなことをするには会社のノルマを優先した上で行う、ということが大事です。
広告代理店で言うと、担当クライアントの扱いをキープする、買い切りを埋める、イベントを全員総出で行うとか、いろいろなノルマがあるんです。
会社で雇われている以上以上、ノルマは仕方がありません。
会社員であることの最低条件といえます。
確かに最低限のノルマはやって後はプライベートを充実するという「静かな退職」の選択肢はありますが、仕事に好きなことを上乗せすれば、充実感は増すはずです。
しかも、それで会社も儲かるというWIN WINだったら給与もよくなります。
私の場合も年俸アップしてもらっていました。
会社もWINなのに、報酬がよくならなしい好きな部署に移れないとならば、その会社に交渉するか、転職を考えた方がよいでしょう。
7.VMDをやりがいに変えた売場塾生
売場塾生の中には、今まで述べたようにVMDをやりがいにして成果を出し、会社に認められて昇進した人たちがいます。
例えば、メーカーに所属してお得意先周りをしている営業マンの方は、売場のプチコンサルをして回っています。
VMDインストラクターということでお店の方に重宝がられて、パイプは太くなり営業成績もよくなり、社長賞をもらいました。
VMDの研修もするようになると、お得意先を減らしてもらって営業の傍ら半分の時間はVMD業務をするという理想的な環境になりました。
またあるメーカーの研究員の方は、VMD好きが高じてショールームのディスプレイを自主的に作っていました。
展示会では季節や新商品のディスプレイレシピを配付し、特約店に売場づくりをアドバイスしていました。
やがて、その方は研究所から本社商品企画部に転勤となりVMD業務も担当することになったのです。
こんな感じで、VMDを好きになり、仕事のやりがいにして働き方を変え、自立していく人たちは売場塾では多くいます。
もちろん私のように会社員辞めてVMDで起業した人もいます。
来週末売場塾交流会を開催するので、ぜひ個性的な方々と交わってみましょう。
8.VMDに関しては「仕事を好きにする」だった
だいたいわかりましたでしょうか、好きを仕事にするコツ。
まとめてみると、下記です。
- 計画を立て行動してみる
- 1人何役でもやる
- 自分で責任を負う
- 会社のノルマを優先した上で行う
これを徹底すれば、運は必ずついてきます。
なぜなら、前いた会社をクビにならなかったし、つくった会社もつぶれていないからです。(^^)
会社では自分の好きなことができない、というあなた。
あなたにとって好きなこととは何か、まずは考えてみましょう。
それを整理した上で、計画を立て社内で実現してみるんです。
ぜひ自主的に動いて自分の可能性を探って見てください。
あるときにクライアントの社長が言った言葉が思い出されます。
、
「言ったことを実行する、それだけだ」
さて、ここで、
どうして私は映像一筋できたのに、いまVMDやっているの?
と疑問に思う方、いるかもしれません。
いいところに気がつきました。(笑)
VMDに関しては、「好きを仕事にする」のではなくて、「仕事を好きにする」だったんです。
これを機会あるときにお話ししようと思っています。
それまでしばしお待ちください。~
(VMDコンサルタント 深沢泰秀)